~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より
幸せになりたいのかな?
だったら
マインドの力を過大評価せず
ハートの光を過小評価しないこと
ハートと魂
ハートで瞑想すると云うことは、魂がいる場所で瞑想すると云うことだ。
確かに、魂の光と意識は体全体に広がってはいるが、魂には大体いつもいる場所と云うのがあり、それがハートの中なのだ。
光を受け取りたいのなら、魂から受け取る必要がある。それはハートの中にあるのだ。
何が欲しくて、どこに行けばそれがあるのか分かっているなら、そこへ行くのは当然のこと。さもなければまるで、金物屋に夕飯のおかずを買いに行くようなものだ。(笑)
マインドから得られるものとハートから得られるものには、比べものにならないくらい差がある。マインドには限界があり、ハートには限界はないからだ。
あなたの内側奥深くには無限の平安<ピース>・光明<ライト>・至福< ブリス>〉がある。限られた量のものを手に入れるのはたやすいことだ。マインドでの瞑想がそれにあたる。
しかしハートで瞑想すれば、もっと限りなく、多くののものを得ることが出来る。仮にあなたが二つの会社で働くとする。一方では二百ドル稼ぎ、もう一方では五百ドルを稼ぐことが出来る。
ちょっと考えれば、一方の会社で時間を無駄にすることはないだろう?
マインドに完全に頼っている限り、まずあなたは瞑想に失望してしまうことは見に見えている。マインドはすべてを複雑にし、あなたを混乱させてしまうからだ。
普通の人は複雑なことが智恵だと思っているが、スピリチュアルな人は神がとてもシンプルだと云うことを知っている。複雑さではなく、シンプルさの中に本当の真実はあるものだ。
そうだからと云って、マインドがいつも悪者だと言っているわけではない。いつも悪者だとは限らないのだが、マインドには限界がある。
マインドから得られるものは、せいぜいよくてインスピレーションなのだが、それ自体限界がある。真のアスピレーションを得るためには、ハートへ行かなければならない。
アスピレーションはハートからやって来る。そこは魂の輝きがいつもあるところだからだ。ハートで瞑想すればアスピレーションを得るだけでなく、魂の無限の〈平安・光明・至福〉を得ることになり、あなたのアスピレーションは初めて満たされる。
Q: 瞑想中にスピリチュアル・ハートにたどり着くにはどうしたらよいのですか?
A: スピリチュアル・ハートは胸部の真ん中にある。あなたが強力なアスピレーションがあるときには、スピリチュアル・ハートを感じることが出来るだろう。
またそれは第三の目で見ることも出来る。スピリチュアル・ハートで瞑想するのが難しければ、心臓そのものに集中してもよい。
しかし数ヶ月または一年ほど経つうちに、肉体の心臓の中には神聖な心〈ハート〉があり、そして神聖なハートの中には魂<ソウル>があるのを感じることが出来るはずだ。これが感じられたら、スピリチュアル・ハートで瞑想を始めることが出来る。
スピリチュアル・ハートにたどり着くには、自分にはマインドがない、腕もない、足もない、ハートしかないと感じなくてはいけない。
それから、自分にはハートがあるのではなく、自分がハートそのものなのだと感じることが必要だ。自分がハート以外の何ものでもないのだと感じられたら、瞑想中に簡単にスピリチュアル・ハートにたどり着クことが出来る。
Q: マインドを離れ、ハートに入ってゆくのがとても難しいのですが、
どうしたらいいでしょうか?
A: あなたのマインドが持つもの全てを、何も考えないでハートの中に投げ込むがいい。「マインドを捨ててしまったら、私の存在はどうなる?バカになってしまう?」
と思うかも知れないが、いいかい? 人と会話するのに使っているマインド、情報を得るのに使っているマインド、世の中の普通の物事をするのに使っているあなたのマインドは、神を悟るためにあなたを、わずか一ミリでさえも前進させることはないのだ。
そのマインドは足が不自由で、盲目で、耳も聞こえないのだよ。
足の裏から頭頂まで、あなたの存在全てが魂なのだと感じること。魂をこめてこう繰り返すがいい。「私は魂だ。私は魂そものなのだ。」と魂をこめて五分間こう唱えたら、肉体のマインドからの抵抗はなくなり、魂だけがある状態が訪れる。
魂の中で生き、魂の光を前面にもってきたら、この光はマインドをより高い領域へもっていくか、平安を上からもってくることが出来る。これにより、これまでのあなたが知っている肉体のマインドは変革される。 あなたの問題は解決されるのだよ。
Q: 瞑想していると、ときどきハートを感じているのかマインドで経験していることなのか、
区別出来ないときがあるのですが?
A: ハートを感じているのであれば、純粋な満足感がある。それがマインドなら、満足感はあるものの、疑いもまたすぐにやってくる。今したばかりの経験が他の考えに攻撃されてしまう。
「自分は本当にだめだ。本当に不純で、本当に無知だ。今朝うそをついてしまったし、昨日もやっぱり誘惑に負けてしまった。だからこんな満たされた気持ちになれるはずはない。」
こんな考えが浮かんでくるのは、これがマインドでの経験なのだと分かる。
マインドで何か経験すると、一時的にとても幸せな気持ちになるかもしれない。しかし喜びは残らない。なぜならマインドが見たり、感じたり、悟ったこととは一体感を確立出来ないからだ。
しかしハートで経験すれば、すぐにその経験と一体感を感じ、喜びはいつまでも継続する。
マインドを使って花を見ると、観賞し、賞賛する。しかし、ハートでその花を見ると、たちまち、自分のハートがその花の中にあると感じるか、その花が自分のハートの中にあると感じられる。
だから何か経験を得て、もしその経験と一つになるなら、それはハートからきていることが分かる。一方、その経験が何か自分の外側で達成されたことだと感じるなら、これはマインドから来ているものなのだ。
~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より