~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より
世の中を変えようとしないこと
きっと失敗する
代わりに世の中を愛してごらん
すると、世の中はどんどん変わってゆく
果てしなく、いつまでも
瞑想:人に奉仕する
Q: 瞑想するためには、まわりを遮断して独りきりになり、人を拒絶すべきでしょうか?
A: 人類とは神の分かち難い一部分なのだ。人を拒絶して、どうして神聖さを受け入れることが出来るだろうか?われわれはこの世を、今あるがままに受け入れなければならない。受け入れずに、どうやって変革することが出来るだろうか?陶芸家が粘土の塊に触れずに、どうやって壺の形にすることが出来る?瞑想する者は人類の中で神聖な勇者のように振舞わなければならないのだよ。
現在の人類は完成には程遠いところにいる。しかしわれわれもまた、その人類の一部なのだ。自分の体の一部のような兄弟姉妹をどうやって見捨てることが出来る? もし見捨ててしまったら、世の中でうまく行動する自分自身の能力を狭めてしまうだけなのだ。人類を自分のものとして受け入れないといけない。もし自分が他の人にインスピレーションを与える立場にいるなら、もし他の人より一歩進んだところにいるなら、それは後の続く者たちの中の、神聖な存在に奉仕する機会を与えられていると云うことなのだ。
あなたがたは世の中に対峙した上で、世の中で〈至高なるもの〉を悟る必要がある。逃避の人生を送ってはいけない。逃げるのは誰だろう? 怖がっていたり、またはひどく悪いことをしてしまったと思っている者だ。われわれは何も悪いことはしていない。だから周りを怖がる必要はない。世の中を怖がっていたら、すべてに対して恐れを抱いてしまう。今われわれに見えるのは、周りにある巨大で不完全な世の中だ。自分を守るためにそこから逃げようとしている。だが、現在の世の中よりもはるかに恐るべき敵は、まさに自分自身のマインドに他ならないのだ。たとえ洞窟にこもったとしても、マインドから逃げることなど出来っこない。いつも自分に付いてくる。しかもこのマインドは、〈不安・嫉妬心・混乱・疑い・恐れ〉その他の神聖でない資質で溢れている。このマインドのせいで、人生の戦場に留まらざるをえないようになっているのだよ。もしこの世に生きているうちにマインドを克服できないのであれば、単に日常の世界から肉体を遠ざけることが何の役に立つと云うのだ。
瞑想するのにヒマラヤの洞窟に入っていく必要もないし、入って行っていけない。人類の中にある神聖な存在に献身することによって、世の中の実相を変革しようとし
なければならないのだ。
瞑想は逃避ではない。この地上で神聖な〈真実〉を、最高に体現するために世の中を変革すると云うビジョンのもと、世の中全体を受け入れること大切だ。自分の内的〈平安〉と前進のためだけに瞑想したい者や、世の中に何も捧げようとしない者は自分勝手な連中だ。また一方で、世の中に何かを捧げたいけれど、捧げるに値する何かを得るために瞑想することはしたくないと云う者もいるが、これは実に愚かなことだ。何も持っていないのに、どうしてそれを捧げることが出来る?
この世には何かを捧げたいと云う者はたくさんいるが、彼らは一体何を持っていると云うのだろう?
自分のやるべきことをやらねばならない。まず達成してから捧げることだ。このようにすれば、神を満足させ、また人類を満たすことが出来る。
世の中を変えたいのかな?
それならまず自分自身を変えること
自分自身を変えたいのかな?
それなら静寂の海の中で
完全な静けさを保つことだよ
~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より